Webコンサルタントの大前創希が緩やかに進行するブログβ版

逆パノプティコン時代

消費者がTwitterやFacebookなどのコミュニケーション手段を通じて、自分の不満を公にし、賛同を得ることができるようになった事は大きな意味を持っていると感じる。

逆パノプティコン時代とも言われている。企業を中心に置いて、消費者が全方位から監視しているイメージ。そして、繋がっている者同士ある程度の共感をベースとしている訳だから「アレが変だ!コレはおかしい!!」という事に対して、自分の芯に違う意見でも元々無い限りは「確かにね」って共有する事も簡単になった。

ある店で店員のサービスに不満を感じたら即「○○店の店員は最悪だ」ってつぶやき、友人は「自分の友人を苦しめるなんて最悪だ!」とネット上で憤る。それを傍観している人も「いいね」やretweet という名の共感を表明する。

ある企業の商品のクオリティに不満を持っていたら「買ったけど損をした」とレビューに書くことが出来る。それを見た別の消費者が、購入前に買わないという選択肢を持つ事ができる。


この状況は消費者とメーカーやサービス業者との関係を大きく変えた。
消費者にとって真に「お客様は神様です」の時代が到来したのだ。

情報が無い時代、または情報を得る事が難しい時代は、自分で買って試して「失敗した・・・」「自分には合わなかった」という結論に至った訳だが、今の時代は購入する前、サービスを受ける前に調べればクオリティが良いか悪いかの目処はある程度立つ。

明らかに悪いクオリティなら、その情報は万人にとって価値のある情報だろう。


しかし極めて断片的な情報や、極めて自己都合に基づく結論をもって不満を共有する消費者だって存在する。ごく僅かな情報ソースや環境や思想の違う消費者の情報を基にして、自分の体験を経ずに取捨選択をする事は、果たして良い事なのだろうか?


他人の言った「美味しい」は、自分にとっても美味しいのだろうか?

他人の思った「使い勝手が悪い」は、自分にとっても使い勝手が悪いのだろうか?

擬似的な経験を積み上げ、真に自分の経験では無い事で結論を得ることは、果たして自分の人生にとって良い事なのだろうか?世界中の著名な格言には「失敗する事」を是とする物が少なくない。ちょっとググればいくらでも出てくる。今までの歴史のなかで培った人間の成功の秘訣は、少なくとも「最初から失敗しない道を歩むべき」とは書いてない。むしろ逆とすら感じる。

今の世の中は、過度に情報化され失敗のケーススタディが大量にあるが故に「他人の失敗をわざわざ自分が繰り返す必要性は無い。」という考えに陥りやすい。

8割が不味いというラーメン屋は、自分にだって不味い。
8割が「クソゲー」というゲームは、自分にとってもクソゲー。
8割が参考にならないといった書籍は、自分にとっても読む価値無し。

それってホント?
2割側ではないと果たして言い切れるのだろうか?


経験した事なら、自分にとっても事実。
しかし未経験の事は、自分にとっては事実とは言えない。
あくまでも仮説だ。


こういった議論をしていると「経験しなくても良い事を未然に防げるのに、それの何処が悪いのか?」という意見を投げかけられるのだけど、イメージして欲しい。「悪い経験をしてこなかった積み重ねの結果、自分が判断をしなければいけないとき、自分しか頼れる状況に無いとき、どう対処するのだろう?」と。

自分の価値観を育てるのは、自分の経験でしかあり得ない。不味いモノを食って気分が滅入るのも、買った物が1週間で壊れ滅入るのも、マッサージの揉み返しがきつくて次の日体が痛いのも、自分にとって何が良いのか?という答えを得る為の過程で全て必要な事なのだ。


痛い経験 = 悪い経験 ではない。

痛い経験から学び、自分自身の経験として次に活かすこと。
痛ければ痛いほど強く学び、二度と陥らないように成長しようとすること。
他者の情報を鵜呑みにしないこと。


私は、逆パノプティコンのカメラの一台と成って未経験のまま見聞きした情報だけで同調するのではなく、自分の目で、感性で判断ができる消費者となって情報を発信していきたい。

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